科学の進歩は普通の人が思っているよりも急速です。逆に世の中は普通の人が考えているよりもわからないことだらけです。日常的なことから最新の科学的知見まで紹介できたら嬉しいです。
ブログの題名はいわしでも頑張れば空を飛べるんじゃないか?夢のあるそしてオリジナルをメザシ鯛という気持ちから。
ここでエピソードをひとつ。とあるプロレスラー、デビュー当時は日本語の話せないブラジル人という設定でしたが、小学校時代の同級生がたまたまプロレスを見に来ており「おい、お前〇〇だろ?」とリングサイドで叫んだそうだ。その時、そのプロレスラーは思い切り「ノー!」と答えたそうだ。
読んだ人に「Are you 〇〇?」と言われても、力一杯「違う!」と答えるのが漢でしょうか。
2012年9月16日日曜日
日本人の国際度 雑感
特に中国なんかでは日本料理店や日本製品の破壊、さらには日本の大使館に
火を放たれそうになるなど、ちょっと尋常じゃないデモの具合である。
上海や北京でも日本人狩りが行われているとかで、実は自分も中国行きの予定を
キャンセルした次第。
中国も韓国もだけど、こういうデモっていうのは基本的にその国民が
不幸であるから生じているのは間違いなく、例えばアラブ社会で起こった
ジャスミン革命なんかも、結局は国民の不幸度が最高潮に達していたために
起きた出来事なのは間違いないと思う。そういう観点から、日本であまりデモやら
革命が起きないのは(小さなものはあるけれど)、まぁよく捉えると日本人の
幸福度が高いから、と解釈することもできるだろう。
そんなこんなで、自分は韓国、中国は近い将来なんらかの崩壊を起こすだろう、と
睨んでいるのだけど、そういう意味で日本はまだまだ平穏なのかもしれない。
さて、中国国内や韓国でのデモや暴徒を見て、(日本人に比べて)民度が低い、と
いう説明をする人が多いのだけど、実は自分はこれにはちょっと違和感を覚えるのだ。
日本人には、なぜだか知らないけど「日本人高潔論」みたいのがあって、外国での
民度の低い出来事を見て笑ったりしているけど、自分は決して日本人全員が
高潔であるとは思わないからだ。周りをみて、民度が低い人間が本当にいないだろうか?
自分はとてもそうは思えない。ホームセンターの駐車場にマクドナルドやコンビニの
食べ終わったゴミが放置してあったり、交差点に車で吸ったたばこの吸殻が山のように
捨ててあったり、コンビニのゴミ箱に家庭で出たゴミをわざわざ捨てにきたり、
トイレには幼児のよごれたおむつが放置してあったり。
こういうのを見るたびに、歴然と民度が低い日本人の存在を実感する訳だ。
日本人の倫理観というのは「恥」というものがベースにあると思うのだけど、
どうやら「恥ずかしい」という感情が無い人達が増えてきているように思える。
結論から言って、すべての日本人は高潔である(民度が高い)、という命題は
否定されるのだけど、外国で起きているような車をひっくり返したり、外国製品を
踏んだり壊したり、中華料理店や韓国料理店が襲われる、
というような行動があまり起きないのは、結局のところ民度の低い人間の
比率がまだ行動に至るしきい値を越えていないから、と言えると思う。
完全に私見だけど、民度の低い人の割合は、中国では60%位、韓国は
特に対日本に関しては90%を超えているだろう。
ただこの両国に関しては個人的にはかなりの差を感じるのだが。
中国人の知識人は感情的な反日思想を持っている人は正直ほとんどいないと思うし、
逆に話してみると、日本のODAなどで社会インフラが整った事を知っているので、
これは日本のお金で建造されたんだぞ、と建ものや道路を示したりもするし
少なくとも自分が何度も行った中国で会った人たちからは反日的な雰囲気は
感じられなかった。街中を観光しても、日本人だからといって嫌な目にあったことは
一度も無かったので、今回の北京や上海での日本人狩り的なものを見て
非常に違和感を感じるし、中国社会も格差などですこしマズイ状態なのではないか?と
思った次第だ。
韓国に関しては、正直知識人と言われる大学の先生などでも多かれ少なかれ
反日感情があるのははっきり認識できる。自分も知らないうちは、単に個人的に
負けず嫌いな人なんだろう、と思っていたけどやはり根底には反日思想が根付いていると
いう結論に至った。韓国に関しては、やはり観光してもいろいろ嫌な目にあったという
話をたくさん聞くから、国民全員、多かれ少なかれ反日的なのだろうと思う。韓国の
人の反日の根底には、コンプレックスも多々あるとは思うが。
まぁ、その辺りを理解した上で付き合っていくしかないのだろうが。
で、最後に自分が外国で経験した幾つかの象徴的な出来事を書いておきたいと思う。
まず、東南アジアの某国での話。とある滞在型のリゾートホテルに滞在していた時の事、
そこは世界中の様々な国からお客が集まっていて、コテージに滞在して食事などは
大きなホールで食べるのだけど、日本人のお客も何人か滞在していて、一緒に食事したり
知り合いになった。仕事とかは自営業の人や母親と娘(おそらくお金持ち)、など多かった。
東南アジアだけど、その施設は従業員がみんな英語を話すので、基本英語でOKだったが、
どうやら皆あまり英語が話せなくて
(買い物とか注文の短い文はOKだけど、いわゆる英会話ができない)
したがって食事でも日本人で固まっている事が多かったという事。これはよくある風景なので
良いのだけど。自分は幸か不幸か英語は得意だし欧米人に日本の嘘話をするのが好きなので
ヨーロッパやアメリカからの人たちと知り合いになって
一緒に食事したりしていたけど、そういう時でも日本人の人は混ざってきたりしなかった。
外国人は割りと平気で混ざってくるけど。
さて、そのリゾートに滞在している人たちは
基本、マナーも良いし日本でも中流以上の人たちばかりだったのだが、
実はそのリゾートの現地従業員の間では日本人は大変に評判が悪かったのだ。
リゾート内の従業員は少々訛りはあるけど、英語を普通に話せたので
まだ若い女の子と世間話をするくらい仲良くなったのだが、その子が
日本人はあまり好きではない、と言っていたのに驚いた。彼女は
もちろん自分が日本人であることは知っていたのだけど。
詳しく聞いてみると、要するに彼女たち現地の従業員に接する態度が、かなり
高慢なのだそうだ。そう聞いて他の日本人の従業員への態度を見ていると、確かに
感じが悪い。お金払っているのだから、サービスは当たり前的な接し方をしていると思った。
ただし、彼女は日本に働きに行きたい、と言っていた。収入が全然違うから、と言っていた。
さて、自分が経験した多数の事から一般論をぶち上げると、
日本人はカラード、特に東南アジアの人には上から目線で接して、逆に白人対しては
妙な憧れとか同じレベルで接することができない人が多い、という事。
それにやっぱり英語が話せる人が少ない(でも外国には日本人観光客が一杯いる)ので
現地の人とトラブルになる事も多いのだ。
だから「金払いはいいけど、高慢ちきで無愛想」というのが
外国での日本人のイメージだと思う。
確かに嫌なやつだw 無愛想というのは会話ができないというせいもあると思うが。
他の民度が低い国の人達は、盗むとか騒ぐとか、
糞便の問題とかなので、そういうのとは違うのだけど、嫌われているのは事実なのだ。
まぁでもこういうのも「民度が低い」とは思うのだけど。
もう一つ、別なエピソード。
自分がまだ大学生の時、アメリカを1人で旅行した事があった。観光旅行の本などには載っていない
とある史跡がどうしても見たくて、ローカルなバスを乗り継いて、目的の場所まで行ったのだけど、
そこで主に観光用の列車に乗り換えて、目的地まで行った時の事。列車のシートは日本的なベンチシートでは
なく、いわゆる4人がけのボックスシートだった。ツーリストは年寄りが多くて(外国ではだいたいそうだけど)、
自分も白人はあまりアジア系の人間と一緒に座りたくないだろう(自分も気を使いたくないし)と思って
誰もいない離れたボックスシートに1人で座っていたのだけど、そこにたまたま乗ってきた
老夫婦が同じボックスシートに座ってきた。他も空いてるのに、わざわざ乗ってきて
これは困ったな、と思っていたのだけど、挨拶をしたら向こうがいろいろ会話をしてきた。
「ここに座ってもいいか?」
「もちろんどうぞ」
「どこから来たんだ」
「日本だよ。大学生です。」
「おお、日本か。」(で、アメリカにある日本企業の施設について話す)
「何歳なんだ?」(多分若く見えたんだろうと思う)
「○○歳だよ」
「ふふふ、私たちの息子みたいね」
こんな感じなのだが、まさか白人夫婦に息子と呼ばれるとは思ってもいなくて
なんだかすごいカルチャーショックを覚えたのでした。
自分も調子に乗って「父ちゃん、母ちゃん」などと言ったような気もするけど、
それからは今から行く観光地についていろいろ話して、バイバイ、とお別れしました。
今になって思うと、1人で辺鄙な観光地にしかも周りが全員白人のところでドキドキしている
日本人を見て気を利かせてくれたのかな、など思うのですけど、
これ以外にもすごく危険とされている場所のローカルバスで降りる場所がわからず
あたふたしていたら、乗っている乗客のおばさん全員に助けてもらったり(どこそこに行くなら
ここで降りな、的な)、最初はアメリカは差別もあって怖い国だと思っていたけど
なんというか懐の深さに感激して日本に戻ってきたのでした。
その後もアメリカに行くたびに多様な価値観の人がいる事を経験したけど
(まぁいまだに歴然と人種差別する人もいる)
文化の違いなのか、何なのかわからないけど、アメリカは好きな国の一つである。
なんだかまとまりが無くなってしまったが、まとめると
日本人にも明確に民度が低い人達は(少なからず)存在する
外国での日本人の好感度は決して高くない(特に欧米以外)
日本人が排斥されないのはお金持ちだから
日本国内で民度の低い事象が起きないのは、民度の低い人達の比率の問題
日本でも確実に民度の低い人種の割合は増えている
日本人は世界の田舎者だと思う
日本国内での民度の低い人間の増殖をこれ以上増やさないようにしないと、
近い将来日本も中国や韓国化してしまうのではないだろうか?
寂れた東京都心部を見ると、日本も完全に老年期に入っていて、
街にはガラの悪い人たちが徘徊していて、明らかに治安も外観も悪くなっている。
日本も黄昏の時が近づいているのだろうか?
2012年8月5日日曜日
科学論文の捏造問題
それを読んでいたのだけど、そこに麻酔科の研究者の書いた過去の論文の大半が捏造であった
という件の新聞記者のコラムのようなものが載っていて、なかなか興味深かったし思う所あって
ブログにも書こうと思った。
その研究者というのは、調べればすぐわかるが、元東邦大准教授の麻酔科医・藤井善隆氏とのことだ。
正確な数字は覚えていないので、ちょっと調べてみたら過去の論文212本のうち少なくとも172本にデータ捏造
という事なので、ほとんど捏造データで論文を書いてきたという事だろう。
なお、現在のところ本人は捏造に関しては否定しているとの事だが、まぁイギリスの研究者の指摘を見ても
調査結果を見ても真っ黒だと思われる。
例えば毎日.jpのこの記事とかを参考。
http://mainichi.jp/select/news/20120630k0000m040061000c.html
さて、自分が読んだ新聞のコラムに書いてあったのだが、このような捏造は珍しくないとか
論文を書く能力もないのに教授になった人間などいくらでもいる、という記述に関して
その通りだなぁ、と頷くしか無かった。
なかで研究者の間で普通に行われている、という論文への名前貸し、という行為だが
これをやっていない者は現在はほとんどいないのではないだろうか?とも思われる。
実際に自分も、他人の書いている論文を読ませてもらう機会があって、ちょっとコメントしたら
共著者にしても良いか?などと聞かれたりした。載せてもらったら、今度は自分がファーストオーサーで
書いている論文に相手も載せたりするのだろう。
自分の場合、丁寧に断ったが仮に4人の共著者の論文を書いたとすると、
自分がファーストオーサーの論文が1本に加えて、共著者として載った論文が3本、合計4本の
業績のできあがりだ。実際、研究室や研究グループ単位で、論文を書く際には
必ず共著者にグループの研究者を入れろ、と指示されている所もかなりあると聞く。
要するに研究室の教授やグループリーダーの研究者が、研究グループでの業績の嵩上げの為、
ひいては自分の学生の業績を数の上で上げるために行なっているのだろう。
研究の共同研究者とはどういうものなのか?とか、共著者に載せても良い研究者の
ガイドラインなど全くないのだから、明らかな不正とまでは言えないのだが、
自分の行った研究になんの寄与もしていない人間を論文の共著者として載せることに
抵抗はないのか?と思うが、ポスドクなどは就職の為にも業績数を増やしたいという思いが強く
まさにギブアンドテイクでそういうグレーゾーンに手を染めてしまっていると思われる。
研究者の業績を審査する場合に、その尺度として論文数というものがある事がこのような
事象を行わせている原因の一つだが、それでは論文数という尺度をやめて内容で審査したらどうか?
と思われるが、毎年大量に生産されている論文は99%以上が他の研究者にはほとんど読まれないし
数年後にはゴミの価値しかないようなものなのだから、仕方がないのだろう。
まぁこれは、自分の感想で実際に重要な論文はもっとある、という人もいるだろうけど。
有名な雑誌に乗っているバイオ系の論文を読んで驚いたことがある。
グラフをプロットするのに、数点しか測定値がなく、それで統計解析までやってしかも
グラフの関数まで推定していた。というか、そういう論文がほとんどなのを見て
「なんだこれは?」と驚いたというのが実際なのだが。
嘘だと思うなら、レベルの高い学術雑誌の一つPNAS http://www.pnas.org/ あたりで
バイオ系の論文をちょっと眺めてみればよい。OPEN ACCESSと書かれた論文は
誰でも読めるはずだ。
知人の生物学者に、データの数についてちょっと聞いてみたところ、
いかに生物実験ではデータを取得するのが大変か、という事を
滔々と説明された。その話を聞いて、ようするに「科学的に妥当なデータ」を
出さないと論文が書けないなら、生物系ではほとんど論文が書けない、という
事なのだろう。実際、生物系の論文は99.999%以上がゴミだ。個人的な感想なので、念のため。
さて、科学論文の捏造に関する問題だが、じつは上で書いた事にも絡んでくると思われる。
というのは、上に書いたように、研究者の業績として論文の数が必要、である点から
バイオ系の研究者は山のように論文を書く必要がある。
その為、倫理的にグレーな、論文へのお互いの名前の載せあいっこ、などが横行する。
特にポストが少ない現状、ポスドクなどはそのボスが指示したなら喜んで従うだろう。
さて、そんな風に皆が山ほど論文の大量生産を始めると、論文数で差をつけるには
かなりの研究センス、または研究者の知人が必要になるだろう。
ゴミみたいな論文でも、一応それなりの新しいデータが必要な訳だから。
頑張って研究しても、良いデータの数がなかなか増えない場合、どうするか?
おとなしく諦めるか、それとも「捏造」だろう。研究で成果をあげなきゃいけない
ポスドクなどは特に捏造することに対するハードルが低いかもしれない。
捏造しないと無職なのだ。
件の藤井善隆氏で捏造と判定されたのは1991年からの論文であるから、
まさに就職のため、出世の為にやり始めたと言っていいのでは無いだろうか?
万人に対する普遍性が科学の特徴なのだから、そんなに簡単に捏造なんてできないのでは?と
一般の人は思うかもしれない。今回の藤井善隆氏の件を見ても、
他に全く同じ研究をしている研究者がいない、あるいは少ないという条件に加えて
それらしい予測されるような妥当な結果であればデータの捏造は簡単だということだ。
そういう論文は、つまりは誰にも注目されない屑論文といっても良いだろうが、
このようにして出世していまでは偉くなっている人間が少なからずいるだろう、という所が
研究業界の真っ黒なところなのである。
あとは捏造の線引きだが、今回のケースのように患者がいないのに、
仮想の患者をでっちあげて論文を書く、という稚拙な捏造はバレてしまうが、
バレるのがかなり困難なプチ捏造とでもいうような手法も存在する。
実験をしている知人の研究者にも聞いたのだが、実験で得られた測定値を
用いてグラフを作成したが、1、2点のデータを無視すると、非常に綺麗な
グラフを描ける事がわかった場合、人によってはその「余計な」データを
論文に載せないで、綺麗なグラフを描くらしい。
そこまでではないにしても、実験で得られたデータを取捨選択して
論文を書くのは普通の事らしい。こういうのは捏造といえるのだろうか?
科学者の立場からいうと、データを捨てるにはそれなりの理由が必要なのだが
論文になった段階でデータを捨てたなどと論文中に書いていなければ、他の誰にも
わからないという訳だ。
実はそうやって主観的にデータを捨てたおかげで、本当に重要な発見を
見逃している可能性もあるのだが。
こういう事情を知っていると、バイオ系の論文を読むときにはデータはあまり信用しないで
読むようになってしまう。
結局、最後にモノを言うのは研究者個人の倫理観なのだが、就職しなければ
無職になって生活できないポスドクが捏造するというのは、本来ボスが
きちんとチェックするべき事で、今回の藤井善隆氏の件でも、捏造判定の論文に
一番多く共著者として載っていたのは、おそらく筑波大学時代のボスらしい。
数も100本以上の論文を共著者として書いていたとの事だ。
ここで、強く主張したいが、100本も捏造論文に共著者として関わった人物を
そのまま何の罰則も与えないで放置することは、研究業界として決して許されないと思う。
本人は全く知らなかった、などと言うのだろうが、共著者として論文に名前を載せるというのは
本来同じ船に乗って沈む場合は一緒という厳しさがなければいけないはずだ。
この共著者の元ボスの名前は調べたがわからなかったが、捏造の共犯として
それなりの罰を受けなければ絶対におかしいし、このような不正はなくならないだろう。
なお、幸いな事に自分の専門である数物系の理論は捏造に関してはクリーンであると
言ってよいと思う。まぁ捏造してもすぐバレるからというのもあるだろうが。
医学系と違って、それほど出世欲の塊みたいな人がいないというのも
良い点なのだろうか?おかげで研究費はとても少ないのだが。
2012年4月21日土曜日
ポスドク問題についての自分の考え
ポスドク問題を端的に説明すると、大学院を出て博士号を取得したのに
就職先が無い、という問題だ。ポスドクというのは言ってみれば期限付きの
ポストで、3年とか5年という期限のみの雇用であって、いわゆる企業における
正職員とは異なっている。つまり、高学歴ワーキングプアとでも言うべき問題なのだ。
このような問題が出てきた背景には、旧文部省がポスドク10000人計画、などと
称して、欧米並みに高度な専門知識を持った博士号取得者を生産すべく
大学院を拡充して博士号取得者の数を増やそうとした事に始まる。
1990年頃を境に、どんどん大学院の学生の定員が増やされ、博士号取得者の
数が増えていったのだが、それに対応するアカデミックなポスト、つまり
就職先が提供されないので、職にあぶれる者がどんどん出てきたという訳だ。
この問題は、文部省がポスドク10000人計画などという無謀な事を
やり始めた時から予想されていた事であって、近年急に生じた問題では
無いことを言っておく。当時は企業などが専門的知識を持つ
博士号取得者をどんどん採用するだろう、という予定だったようだ。
自分の考えだが、このような事をやったのは専門的知識を持つ人材を
増やしたいという側面よりも、学生の数と「失業者候補の受け皿」を増やして
失業率という見かけの数字を上げないためだと思う。
さて、ここからはリアルな話に移ろうと思う。念の為に書いておくと、
以下はあくまで自分の経験に基づく話で、一般全てに当てはまるわけでは
無いことを
世の中の論調では、博士号まで取得した優秀な人材が就職先も無くて
困っている、彼ら彼女らを活かすためにも国としてなんとかせよ、という感じだろう。
確かに優秀な人材が活躍の場も無く埋もれているのは国としても損失であろう。
しかしそのような優秀な人材なのに、なぜ企業は採用することを躊躇するのか?
結論から言うと、定員をどんどん増やして工場のようになった大学院から
大量生産された博士号取得者の能力はそれほど高くないのである。
というよりむしろ「使えない」と言ったほうがいいかもしれない。
自分も何人ものポスドクと話す機会もあり、またいろいろ研究の相談も
受けているのだけど、正直言って研究者としてモノになりそうな
資質を持つ人間は10人に1人もいないと言って良い。
研究者として独り立ちしてやっていくには、問題をスマートに解いていく
高い能力が必要なのはもちろんだが、何よりも重要なのは「自分で問題を設定する」
という能力だ。どういうことかというと、科学界で未解決な事柄があった場合、
まずはそれを解くべく問題設定をする必要がある。さらに、他の研究者との
コミュニケーション能力も必要だ。正直、この現代において昔の学者のイメージよろしく
1人でコツコツ研究して解ける問題などかなり限られているし、さらに人並み外れた
能力が必要なのだが、10年に1人いるかいないかといったところだろう。
ポスドクに研究に関していろいろ相談される事が多いので、自分なりに
こういう問題を解いたら良いのでは?とヒントとかアドバイスをするのだが、
学生ならともかく、学位を取った博士がする質問としてはかなりレベルが低いと
言わざるを得ない。何をやったら(研究したら)良いのかわからない、という
ポスドクが多すぎる。これも大量生産の故、指導教官に与えられたテーマを
シコシコやってきてようやく博士号を取り、研究界に放り出されてはたと立ち止まると
何をしていいやらわからない、という人間が多いのだ。
研究者はそれぞれ研究者になった理由というか、ライフワーク的な研究テーマが
あるのが普通だと思っているのだけど、そのようなポスドクに「君はライフワークで
どんな事を知りたいと思っているのか?」と聞いても、答えられないか、目先の
小さなテーマしか答えられないポスドクばかりだ。問題が与えられないと
何もやれないような人間は、企業としても「使えない」というのが本音だろう。
大学院の学生を見ていると、小さな頃から上の学校へ進学する事で親などから
賞賛されてきて、なにか研究したい対象がある訳でもないのに、大学を卒業したら
その上の学校である修士課程、さらに博士課程、と何も考えずに進学する人間が
結構多い。そのようなタイプはたいてい学位を取る段階でテーマが決められずに悩むか
あるいは指導教官にテーマを与えられて学位論文を仕上げても、所詮は与えられたテーマであり
凡庸なものしか書きようが無い。その結果、ポストが無いのは当たり前なのだ。
しかし今の世の中、失業者を増やさないためか期限付きのポスドクという
ポジションは探せばわりと見つかるのである。ストレートで学位を取得して
27歳、そこから5年のポスドクを2回やるともう40歳近くなる。
その頃になって初めて自分の置かれた状況に気が付き、あるいは焦り始める
ポスドクが非常に多い。さらに悪いことに、そのような状況になる人間は
漠然と自分は優秀である、と勘違いしていて大学などのアカデミックな職以外は
就職の対象として見ていないから目も当てられないのだ。
自分の経験だと、有能な人間ほど大学院に進学しても修士課程で一流企業に
就職し、さほど有能でもなく「上があるから進学する」タイプの学生は
特攻するように博士課程に進学してくる。こちらがアドバイスしても
全く聞く耳を持たないのが後者のタイプで、研究テーマや就職先(アカデミックな)に
ついて泣きついてくるのも後者だ。仮に自分が企業の人間だとしても、こういうタイプは
雇えないと思う。
なんだか長くなったが、学校を出れば就職先があるなどというのは幻想であって、
競争社会のこの世の中、能力のないものがポストを得られないのは当たり前の事だと思う。
それに対して国がなんとかしなければならないとしたら、根本的におかしな事になると思う。
日本の社会の特徴は、大人なのに子供扱いする、過保護というか社会保障という
名のもとに社会主義的な思想でダメ人間の世話をする風潮があるが、そういう調子だkら
経済でも政治でも世界で3流の国に成り下がり、リーダーとしての良い資質を持つ人間が
育たないのだと思う。使い尽くされた言葉であるなら「自己責任」が無い子供社会なのだと
思う。大人というのは、自分の行動に対して責任を持つのが当たり前だろう。
だからこそ物事に対して一生懸命になれるし、そうすることでリーダーとしての資質である
責任感も育つのだと思う。ポスドクに限らず、政治家も官僚もみんな無責任なのは
こういう日本の社会風土の賜物だと最近つくづく感じた次第である。